素直に縁に随って
「今宵来し妻と見上ぐる盆の月」(森澄雄)——盂蘭盆(うらぼん)の入りの日の宵、亡き妻を迎えてともに眺める月のなんと愛しく美しいことよ、といった趣でしょうか。先に旅立ったお連れあいに「あなたに恥じない生き方をしているよ、安心しておくれ」と語りかけているようにも感じられる一句です。
夫婦ほど深い縁で結ばれないまでも、私たちはだれ一人として、たった独りで生きてはいけません。人間という言葉どおり、「人の間(あいだ)」で暮らし、人やものごととの出会いの積み重ねによって人生を紡いでいきます。開祖さまが、ずばりと「人生は出会いである」といっているとおりです。
ただ、その出会いのなかには、相手に恨みや憎しみを抱いて苦しむような出会いもあります。それほどではないにしても、人それぞれ人生経験も価値観も違いますから、反りがあわない人との出会いは少なからずあるものです。そういうとき、たとえば「この人とはあわないな」と思いこむと、ついその人を遠ざけたくなりそうですが、私はなぜかこれまで「自分にはないものをもった、おもしろい人がいるなあ」と感じたり、「こういう考え方もあるのだな」と受けとめたりすることが多かったように思います。
「袖振りあうも多生(他生)の縁」といい、仏教には「対面同席五百生」という言葉もあるように、道でたまたま出会った人でも前世からの深いご縁で結ばれているとされるのですから、一つの出会いを自分の都合や感情のままに「悪い」と判断するのはもったいない気もするのです。
詩人の谷川俊太郎さんは、「人と出会ったおかげで、自分とも出会えた」といっています。人との出会いによって自分では気づかない自分の一面に気づかされる、あるいは自分の意見に反対する人の考えを知って、それが自分を磨く糸口になることもあるのです。人格や人間性を高めるうえでは、自分の意見に賛成する人と反対する人が同じくらいいることが大切といわれますが、その意味でも縁に随って素直に人と向きあうほうが人生を豊かにすると思うのです。
亡き人とも出会い直す
とはいうものの、いやなことや嫌いな人を素直に受け入れるのはなかなかむずかしいことです。それでも、幸いなことに私たちは仏さまのおかげさまで、人にもものごとにもわりあい素直に向きあうことができます。自分にとって不都合な人や現象に直面したとき、「これは仏さまが何を教えてくださっているのだろう」と内省し、どうして自分がそれを不都合と受けとり、いま何をすることが大切かを冷静に見つめる契機としますが、このように仏さまに自分の心を重ねる習慣が素直な心につながるのです。
またよくよく考えてみると、とくに人との出会いは、さまざまな因と縁の連続によって生じた不思議なめぐりあわせによるものです。辞書で「縁」を引くと「人と人を結ぶ、人力を超えた不思議な力」とありますから、どなたとも出会うべくして出会ったとしかいいようがないのです。そのことを思えば、夫婦や親子、兄弟姉妹はもとより、出会ったすべての人に対して、「あなたに会えてよかった」と心からいえる私たちでありたいと思いますし、そうしてみんなが仲よく笑顔で向きあうことが、すべてが関係しあっていると教える縁起の理法にそった生き方なのだと思います。
まもなく迎える盂蘭盆会の際には、ご先祖やいまは亡き家族とも私たちはあらためて出会い直すことになります。往時を思い起こし、つくづく「あなたに会えてよかった」と思慕と感謝の念を深めることでしょう。その一方で、いま命ある有り難さをかみしめるとき、読経供養の三帰依文や普回向など精進を誓う言葉がいっそう増して胸に迫り、亡き方々に恥じない生き方をしようとの思いも新たにするはずです。
出典:立正佼成会 機関誌『佼成』2026年7月号「会長法話」より
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